先日、疎開されていた鈴木和子様(東京在住)より手紙をいただきました。
駒草という俳誌の二月号に「学童疎開」で掲載されたそうなので、御紹介させていただきます。

学童疎開   鈴木 和子

 昭和十九年八月末、神谷国民学校疎開学童は父兄に見送られ出征兵士のごとく赤羽駅を出発した。皆手に手を振って遠足にでも行くような元気さである。行く先は群馬県富岡市。

 三、四年生は富岡に、五、六年生は近くの寺へ別れた。私は五年生百人を引率して小野村長學寺へと行く。案内の人が山道が近いからと、村道から山道に入り、崖伝いの山坂を上り下りして夕方やっと寺についた。寺では村長さん、和尚さん、村人達が暖かく迎え入れてくれた。 

 寺には電燈もなくランプ。本堂とその前の廊下に百人もの子供がずらっと布団を敷いて雑居寝、便所はむじなが出ると言う暗い裏庭を通っての外厠、三尺の小さな棚が一人分の荷物入、私も生徒の間に入って板の間で寝たが、痛くて初めのうちは眠れなかった。 

 寺には井戸が一つきり。百人余の人々が生活するので水は忽ち涸れ、村人が急いで谷間に井戸を掘ってくれたが、その水運びの天秤を担ぐのは男の子の仕事、私も初めて天秤を担いだが、水を前後に入れて持ち上げるだけでも大変である。それを坂道を登って炊事場まで運ぶので、着いた時には水が半分にも減ったりする。それで風呂の水運びもするのだから、生徒の負担は大変である。 

 朝六時起床、洗面、乾布摩擦、ランプ磨き、落葉を集めて焚火、私も一仕事終わって手をかざすと時々焼藷の匂いがしたりする。 

 食事は板の間に座って小さな机に向き合って合掌、「箸とらば・・・」と朗詠、一杯の飯、味噌汁、南瓜の煮付、漬物位で、午前中は授業、午後は殆ど作業である。 

 村人に教わって桑の木を抜いて段々畑を作ったり、藷掘りをしたり、私も手に血豆を作りながら夢中で働いた。男の先生がこんな山の中で責任が持てないと下山。代わりの先生が来たがそれもすぐ召集令状で下山。結局二十一歳の私が百人余の生徒、寮母四名、炊事人三名の責任者となり、それに村人との交渉もあり、声が涸れて何度か鐘撞堂の下で泣いた事もあった。 

 併し一ヵ月もすると電燈がつき、炊事人も変わって、子供の母親の渡辺さんが寮母を手伝わせて炊事をするようになり、男の先生も戻って来て、食料も村の人、隣り村の人までがリヤカーで運んでくれて大変ながら楽しい日々が続いた。心配して親が四、五人ずつ面会に来る。そんな時は裏山へ行ってお母さんと話して来なさいと言って山へやる。食料の無い時代、工面してリュックにやっと持って来た菓子やお握りを食べさせる。違法とは知りながら大目見てあげるのが私の精一杯の気持ちである。子供はもらった豆等を夜そっと隣の子と一粒ずつ食べながら布団の中で涙している。男の子は結構いたずらで、裏池の金魚を皆食べてしまったとか、隣り村まで行って乾燥芋を盗んだとか、その度に私は和尚さんに呼ばれて「困りますよ、先生」と叱られる。漆を知らない子供達が面白そうだと木の汁を顔に塗ってかぶれ、富岡町の医者に寮母さんがリヤカーで、私は自転車で二時間もかけて山路を連れて行った事もある。又薪運びも皆の仕事、役場まで往復四軒余の道を一束ずつ背負って百段の寺を登って来る。麦踏みも一列ずつになって踏む、こうして生徒達はめきめき逞しくなった。始めの内は村へ風呂をもらいに行った事もある。又村人を呼んで演芸会と称し、村人におやつやさつま芋の土産を沢山もらって腹一杯食べ、村人も何かと大切にしてくれた。山頂で浅間山の噴煙を仰いで唄ったり日の丸弁当を持って妙義山へ登った事は忘れられない。 

 終戦後一ヵ月位で沢山の土産をもらって引き揚げてきた。子供手当て等ない時代、村長さん和尚さん始め沢山の村人達が無償で何かと協力してくれた事、今思うと本当に有難い事だったと思う。その後は私の家での新年会、寺訪問等、生徒達が皆立派に人生を全うし、今年は喜寿、私も米寿。戦後の日本を支えたのは、こうした子供達である。私も息子達の中学、高校の頃に夫を亡くし、決して楽な人生ではなかったが、最後まで生徒に恥ずかしくない人生を全うしたいと思っている此頃である。

疎開寺は 今も山奥 花の奥 和子

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